【黎明期の群像】序にかえて 長崎に学んだ「先進地」

 
近代医学の医師養成の拠点として芽生えてから150年を経て、本県の医学・看護学、医療の中核を担う福島医大

 2021年は戊辰戦争後間もない1871(明治4)年、白河仮病院に近代医学による医師の養成を目的とした白河医術講議所が設置されて150年の節目に当たる。この機を捉えてさまざまな記念事業が計画されているが、その一環として福島県立医大の医学部同窓会は、本県の医学教育の黎明(れいめい)期に活躍した先人たちの偉業を改めて掘り起こすことにした。

 最初は二本松藩

 白河医術講議所は本県下、明治期になって初の近代医学教育機関であり、現在の福島県立医大の淵源と位置付けられる。その後身である須賀川医学校の卒業生には、関東大震災の際、内務大臣兼帝都復興院総裁として辣腕(らつわん)を振るった後藤新平もいた。

 さらにさかのぼれば、白河医術講議所以前、既に幕末期の県内各藩において近代医学教育への取り組みが開始されていた。会津藩では1857(安政4)年に蘭学所を設け、後に藩校日新館に移して八重の兄、山本覚馬らが教授に就任。59年には日新館医学寮に蘭学科を設置し、吉村二洲を教授としてオランダ医学の教育を本格化させた。その卒業生である渡部思斎(しさい)は、西会津野沢に明治の松下村塾と呼ばれる学塾研幾堂を創設し、医学を含む4科を設けて400余人の子弟を輩出した。野口英世の手術を行った渡部鼎(かなえ)はその一人であり思斎の子である。

 日本が西洋医術に触れる端緒となったのは1543(天文12)年、ポルトガル人の種子島漂着事件といわれるが、近代医学が本格的に広まるのは、シーボルトが1823(文政6)年に長崎・出島のオランダ商館医に着任し、「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開設して以降のことだ。

 先年、長崎県立図書館長を務めた平松勘治氏は、江戸時代に全国から長崎に遊学した人物をリスト化した『長崎遊学者事典』をまとめた。そこに記載された本県ゆかりの人物は37人。うち医師は23人と多くを占める。

 会津藩以外で医師を派遣したのは相馬中村藩、二本松藩、三春藩だが、最初に蘭方教育を開始したのは、意外にも会津藩ではなく二本松藩だった。代々二本松藩医を務めた家系の3代目小此木天然(てんねん)は、シーボルトに指導を受けて乳がん手術に成功して帰藩し、遅くとも1824(文政7)年までには藩校敬学館で蘭方教育を始めている。

 当時の奥羽諸藩の中で西洋医学が盛んと目されたのは仙台藩、会津藩、相馬中村藩、二本松藩の4藩で、仙台藩校に蘭科が設置されたのは1822年。二本松藩はほぼ同時期と言えよう。東北において本県は近代医学の先進地だった。

 看護分野も貢献

 また、相馬中村藩から長崎遊学した鎌田昌琢(しょうたく)はわが国で初めて子宮外妊娠を診断し手術に成功したと記録されており、須賀川の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)は本邦初の銅版解剖図『医範提綱内象銅版図(いはんていこうないしょうどうはんず)』を制作し、当時のベストセラーとなった。さらに、鶴ケ城軍陣病院の照姫らの看護活動は英国領事館の医官ウィリアム・ウィリスに啓示を与えて東京医学校兼病院の看病婦制度につながり、わが国最初の、そして2番目の看護師養成機関の設立にも県人が大きく貢献するなど、本県は「医」ばかりでなく「看護」分野でも重要な位置にあったのだ。

 こうした重要な歴史的事実は、専門家など一部の人を除き一般県民にはほとんど知られていない。私たち「福島県における近代医学教育黎明期の群像」執筆チームは、歴史に埋もれていた先人たちの偉業を掘り起こし、郷土の誇りとして広く福島県民に知ってもらうため、今般、筆を執った。コロナ禍の最前線で苦闘する医療従事者の方々も福島の「医」の先人たちの輝かしい足跡に思いを致し、元気を出してもらえればと切に願う。(福島県立医大医学部同窓会特任事務局長 岸波靖彦)

黎明期の群像

 藩校 江戸時代に藩が藩士の子弟教育のため開設した学校。初期は儒学などが学びの中心だったが、江戸中期に各藩で藩政改革が進むにつれ人材育成も盛んになり、幕末にかけて西洋の学問や医学、武術・兵学など幅広い指導が行われた。会津藩の日新館、長州藩の明倫館などが有名。

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 シーボルト 1796~1866年。ドイツ人医師で博物学も修めたが、貿易国オランダの陸軍軍医となり、命令により1823(文政6)年に来日。長崎・出島を出ることを許されて市中で診察に当たり、翌24年には長崎・鳴滝に塾を開いて高野長英をはじめ日本各地から集まる医師たちに西洋医学を教えた。26年にはオランダ商館長の江戸訪問に同行し日本国内の動植物や地理、文化などを幅広く調査したが、この後、集めた資料の中に国外持ち出しが禁止されていた地図などが含まれていたことが発覚、国外追放となった(シーボルト事件)。オランダ帰国後は日本研究を進め、日本開国後の59年には追放を解かれて再来日を果たしている。