【黎明期の群像】亜欧堂田善と解剖図 国内に類なき精巧さ

 
亜欧堂田善「新訂万国全図」。官製の世界地図が田善の銅版画技術の集大成となった

 日本医学史において、特に近世の解剖学は実証主義の台頭により一気に進展した。杉田玄白(げんぱく)らの『解体新書』(1774年)が象徴的な成果として知られるが、それに続き、近世と近代の医学をつなぐ業績として、宇田川玄真(げんしん)(1769~1834年)の『医範提綱』と日本初の腐食銅版画(エッチング)による解剖図『医範提綱内象銅版図』(1808年)、そしてその完成に貢献した須賀川の画人・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(1748~1822年)に注目したい。

銅版技術を習得

 亜欧堂田善(本名・永田善吉)は、江戸時代後期の洋風画家である。特に西洋画法(遠近法、陰影法)を用いて描いた江戸名所風景銅版画で知られ、葛飾北斎や歌川国芳ら同時代の絵師はもちろん、洋画家の岸田劉生など近代以降の作家たちにも強烈な印象と影響を与えた。

 「自上野望山下」(上野より山下望む)は田善の代表作となった絵葉書(はがき)大の江戸名所銅版画の中でも、その目指したところや銅版画技術の到達点がよく理解できる作品である。西洋画に倣った木の幹や葉の表現、遠景の通りを歩く一人一人も識別可能な細かい描写、正確な遠近法と陰影法による風景の奥行き。また田善はそこに必ず、寛(くつろ)ぐ人、働く人など江戸の町に暮らす人々の姿を配した。手のひら大の画面の中に広がる大きな世界は、江戸時代の人々に大きな驚きをもたらしたのである。

 同じ須賀川に生まれた特撮監督・円谷英二は、自分の母方の祖先に田善がいると聞かされており、新聞の寄稿においてその伝聞とともに「私がいま、こんな仕事ができるのも、田善という器用な先祖の余慶かな、と思うこともあります」と記している。奇(く)しき縁を感じるとともに、田善の仕事は「わかる人にはわかる」と思わされるエピソードといえよう。

 さて、宇田川玄真の訳述編集による『医範提綱』全3巻は、ブランカールツ(+)らの解剖学・生理学に関する著書をもとに編まれた『遠西医範』30巻から、人体各部の名称と解説、さらに玄真の講義と解釈を記したものである。1805(文化2)年の刊行以来、版を重ね、明治時代初期まで広く読まれた。この附編となる解剖図が1808年刊行の『医範提綱内象銅版図』である。

 これに30年ほど先立つ『解体新書』の解剖図は、小田野直武が蘭書の銅版画を写し、木版で印刷された。腐食銅版は、銅板を酸で腐食させて製版し、版の凹部に詰めたインクを高い圧力をかけて紙に写し取る凹版画技法である。一本の線を印刷するためにその通り線を引けばよい銅版に対し、線の両側を彫りくぼめる木版では、遠近法や陰影法といった西洋画法が駆使された腐食銅版画の地図や解剖図を再現できない。海外の医学を日本人が取り入れていく上で、腐食銅版技術の導入は重要な課題であった。

 田善をこの仕事に導いたのは白河藩主松平定信であった。寛政の改革を手掛けた定信は、一線を退いた後も蘭学から有用な知識を取り入れようと、学者たちに研究させる中で腐食銅版画技術の必要性を認め、何らかの機会に善吉の器用さに目を留めて、これを習得させるため、まず谷文晁(ぶんちょう)に入門させたとされる。実は、田善と定信が出会う10年前に、大槻玄沢らと交流のあった司馬江漢が日本初の腐食銅版画を成功させている。江漢はその技術を独自のものとして公にしていなかったのである。

 現在知られている約90点の田善の腐食銅版画は、定信周辺の学者の導きで技法を身に付け、習熟していく過程に制作されたものである。作品を出すたびに円熟していく技術は、科学者たちに理想実現への期待を高めさせた。

医師の悲願実現

 果たして田善の手掛けた『内象銅版図』52点の解剖図は、原典の蘭書や腑分(ふわ)け(解剖)を見たことのない者でもその正確さを直感できる仕上がりとなった。制作は蘭学者たちから示された西洋の見本によっており、田善自身が実際の腑分けを見たことがないにもかかわらず、である。跋文(ばつぶん)に「當時其人ヲ不得苦ム 天其衷ヲ誘キ 助ルニ亜欧堂ヲ以ス」、意訳すれば「当時はその人を得られず苦しんだ。天はその心を、亜欧堂をもって助けた」とある。解体新書刊行当時、日本の医師たちは海外の銅版画による解剖図の精密さに驚きながら、自分たちの手でそれを実現することができなかった。その解体新書以来の念願が、田善の手によって実現したのである。

 定信に取り立てられた時、田善は47歳。61歳で『内象銅版図』が刊行され、その2年後、銅版技術者として最大の仕事となる日本初の官製世界地図『新訂万国全図』も完成させている。

 科学者たちを大いに助け、画家としても見るべき作品を成した田善。江漢は数々の著書や逸話に旺盛な好奇心と自らの業績に対する自負をにじませるが、田善が語った言葉はほとんど知られておらず、その生涯にも不明な点が多い。その沈黙は、彼が学者たちの熱意と研究の意義、全うすべき自身の使命とを正しく理解していた証しであろう。

 『内象銅版図』凡例の「此銅版図ハ奧人亜欧堂主人ノ所鐫也 主人和蘭ノ寫眞及ヒ銅版之技ニ於ル銕筆精工於海内ニ獨歩」(この銅版図は東北の亜欧堂先生の彫ったものである。先生には、オランダの精密な描画と銅版画技術の精巧さにおいて国内に並ぶものがない)という一文は、そのような田善の人柄や技術に対する最大の賛辞であり、その偉業を私たちに伝える江戸の蘭方医たちからのメッセージなのである。(須賀川市文化交流部文化振興課主査・学芸員 管野和恵)

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 ブランカールツ オランダの医師、博物学者。解剖書をはじめ、観察を重視して多くの著書を残した。