【黎明期の群像】日本初の看護師養成機関 女性の道開いた捨松

 
大山捨松の「生誕の地」に立つ案内板=会津若松市東栄町

 捨松(すてまつ)。この風変わりな名前には、海外留学をする娘をいったんは捨てたつもりで送り出すが、必ず帰国するものと信じて待っているという母の痛切な覚悟と願いが込められていた。

受け皿なかった

 兄が斗南藩の権大参事をしていた関係と思われるが、開拓使が募集した日本初の女子留学生に応募して採用された。11歳だった咲子はこれを機に捨松と改名し、津田梅子らとともに1871(明治4)年に米国留学に出発したのであった。

 彼女は、コネティカット州ニューヘブン市の小中高等学校で学んだ後、バッサー・カレッジを卒業した。その後、市民病院で看護学を学び、看護婦資格を取得している。自身が高等教育と看護教育を受けたことで、そうした女子教育機関の重要性を実感したことであろう。

 しかし、11年間の留学で培った成果を活(い)かそうと、希望に燃えて帰国した捨松を待っていたのは、女性を正当に処遇しない社会の現実であった。国費留学をして帰国した男性には官吏や大学教授の職が与えられたのに、女性の留学経験者には受け皿がなかったのである。

 失意の中で捨松は、薩摩藩の出身で、かつて鶴ケ城を砲撃した当人である、陸軍卿の大山巌(いわお)から求婚される。周囲はもちろん反対したが、大山の人柄に魅(ひ)かれた彼女は、自ら結婚を決意した。陸軍卿夫人となった捨松は、鹿鳴館における舞踏会や晩餐(ばんさん)会で注目されるようになり、やがて「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。

教育支援続ける

 ある日捨松は、近代看護教育の導入の必要性を述べる海軍軍医高木兼寛の話を聞いて心動かされた。高木は、英国のナイチンゲール看護学校を擁した聖トーマス病院に留学した経験を持つ。だが、学校創設には資金が不足していた。捨松は、バザーによってその資金を用意することを発案。皇族や貴族の夫人で構成された婦人慈善会が鹿鳴館でバザーを行い、その収益金によって1885(明治18)年に設立されたのが、日本初の看護師養成機関・有志共立東京病院看護婦教育所(現慈恵看護専門学校)である。

 その他にも彼女は、赤十字看護会理事として看護師教育を援助している。また旧友でもある津田梅子が取り組んだ女子高等教育を支援し続けた。

 日本初の女子留学生として学士号を得て帰国したにもかかわらず、正当に処遇されなかった捨松は、日本が、女性の能力を伸ばし発揮させる社会に変わることを切望していたのである。

 では、日本の現状はどうだろうか。各国のジェンダー不平等状況を分析した『世界ジェンダー・ギャップ報告書2021』によれば、世界156カ国中で日本は120位で、G7の中では圧倒的最下位である。悲しいことに、捨松の目指した理想はまだまだ遠い。(福島県立医大講師 末永恵子)

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 山川家 捨松の父は会津藩国家老の山川尚江(なおえ)重固(しげかた)で、捨松は2男5女の末娘だった。長男は会津藩重臣で斗南藩では権大参事を担った大蔵(おおくら)(後の浩)、次男は東京帝国大総長などを務めた健次郎。姉の操は宮中でフランス語通訳や皇后付きの女官を務めた。

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 開拓使 明治初期に北海道など北方開拓を担った政府の役所。次世代人材を米国に留学させる事業は開拓次官黒田清隆の発案から始まり、国費留学制度として募集された。兄の健次郎も国費留学している。

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 津田梅子 幕臣の子として生まれ、米国への最初の国費留学では女子5人の中で最年少だった。帰国後は英語教師などを務めたが、再度の留学を経て女子教育に力を注ぎ、先駆的で学問重視の私学として女子英学塾(現津田塾大)を1900(明治33)年に設立。2024年発行予定の新五千円札の肖像画に採用される。

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 バッサー・カレッジ 米ニューヨーク州に本部を置く難関大学。捨松が学んだころは女子大だったが、1969年に共学化した。

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 大山巌 薩摩藩士で西郷隆盛のいとこ。砲術に長(た)け、明治に入ってからは欧州留学を経て陸軍で西南戦争鎮圧などに活躍した。初代の陸軍相。日清戦争、日露戦争では陸軍大将などとして勝利に貢献した。捨松とは再婚だった。那須を好み大山農場や別邸を設けたほどで、巌や捨松、前夫人らは那須の墓所に眠っている。参道や近くの大山公園は紅葉の名所として親しまれている。

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 高木兼寛 医学博士。現東京慈恵会医大の創設者。薩摩藩士の子として現宮崎県に生まれ、蘭方医に学んだ。戊辰戦争に軍医として従軍した後、本格的に西洋医学を学び、鹿児島医学校では校長ウイリアム・ウィリスの薦めで教授に就任。英国留学を経て海軍軍医の要職を歴任した。海軍の大問題だった脚気(かっけ)について疫学調査により白米中心の食事バランスに問題があると推論し、麦飯やカレー(後の海軍カレー)などを導入して状況を大幅に改善した。医師や看護師の育成にも尽力した。