【建物語】じょーもぴあ宮畑「じょいもん」・福島市 縄文の心と技伝える

 
体験学習施設「じょいもん」。屋根の天井部分の形は、宮畑遺跡から出土した深鉢土器の形がもとになっている

 人々が1万年超にわたり狩猟、採集、漁労を生業(なりわい)に、土器や弓矢を使い、本格的な定住生活を営んだ。この日本独自のユニークな文化を展開した時期が縄文時代。7月には「三内丸山遺跡」(青森市)など17遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に決まり、世界も熱視線を送る。

 さかのぼること23年前の1998(平成10)年。「三内丸山遺跡級」と全国的に話題になった遺跡が本県にもある。福島市岡島の「宮畑遺跡」だ。約4500~2500年前の約2000年の間、特徴の異なる集落の歴史を刻んだ。2003年に国史跡の指定を受け、今や南東北を代表する存在となった。

評価が一変した

 市は10年以上かけて史跡公園整備を進め、15年に「じょーもぴあ宮畑」が全面開園した。縄文の自然を再現し、縄文中期の竪穴住居や晩期の掘立(ほったて)柱建物を復元。縄文時代の文化を楽しみながら学べる体験学習施設「じょいもん」もあり、市民の憩いの場となっている。

 とはいっても、宮畑遺跡は近年まで世に埋もれた存在だった。昭和30年代から存在は知られていたが、重要性は低いとみられた。工業団地の造成工事に伴い、市が1994年から試掘調査して広範囲に及ぶと判明。97年の本格的な発掘調査で評価は一変した。竪穴住居跡や敷石住居跡とともに、直径90センチの柱を使った掘立柱建物跡が発見された。

 ちょうど三内丸山遺跡で掘立柱建物が復元され、世間が縄文時代の巨木建築物に魅了されていた。そこに「三内丸山遺跡級」の報道が重なった。しかし、すでに進出企業は決まり、直前に造成が始まっていた。遺跡の徹底調査や保存を求める声は増した。「工業団地建設を進める市への批判もあった」。当時、市文化課で発掘調査を担当した斎藤義弘さん(61)=じょーもぴあ宮畑所長=は語る。市は98年に文化庁の指導で工事を中断、4年に及ぶ発掘調査を経て「縄文時代の社会を考える上で重要な遺跡」と確認し工事を中止した。

土器がモチーフ

 国史跡指定を機に、市は宮畑遺跡を全国に誇れる施設に整備する方向にかじを切る。有識者や教育関係者、市民と組織をつくって計画づくりや整備を進めた。この時も携わった斎藤さんは「縄文時代を五感で体験することに加え、施設をどう活用するかも重視した。狙いは市民と共に成長していくこと」と振り返る。

 象徴的なのが体験学習施設「じょいもん」。縄文人の生活を分かりやすく紹介した展示に加え、焼失した竪穴住居跡の床下展示も見どころだ。そして、宮畑遺跡から出土した縄文土器をモチーフに、逆六角錐(すい)で立体的な天井がひときわ目を引く。建物自体が来場者に縄文時代へのイメージを膨らませる仕掛けになっている。

 意匠設計は棚倉町出身の建築家・故古市徹雄氏。「古市氏の最後の大作といっていい傑作」。設計に加わったボーダレス総合計画事務所(福島市)の鈴木勇人代表(49)は評する。「(古市氏は)何度も現地に足を運び、いくつも模型を作っていた。宮畑遺跡で暮らした縄文人の高い文化水準に負けないように最先端技術を用いたと話していた」と懐かしそうに語る。

 直径90センチの柱を使った掘立柱建物は周辺集落の象徴的な建物として、人々の力を結集して建てられたと考えられている。発掘調査から関わってきた斎藤さんは思う。「縄文時代と同じように市民の力を結集し、福島の文化の誇りを体現できる施設になればいい」(国分利也)

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 じょーもぴあ宮畑 国史跡「宮畑遺跡」では、縄文中期に約半数の竪穴住居が意図的に焼かれた痕跡が残り、縄文晩期に広場を中心に掘立(ほったて)柱建物群や幼児の墓が配置された特徴がある。掘立柱建物や竪穴住居の復元など屋外展示も充実。体験学習施設「じょいもん」の展示室観覧料は一般200円、高校生以下100円。住所は福島市岡島字宮田78。時間は午前9時~午後5時。火曜定休。電話024・573・0015。

じょーもぴあ宮畑「じょいもん」の地図

NHKラジオ第1「こでらんに5 next」で毎週木曜にコラボ企画

 建物語は福島民友新聞社とNHK福島放送局の連携企画です。NHKラジオ第1で毎週木曜日に放送される『こでらんに5 next』(休止の場合あり)のコーナー「ふくしま見聞録」で紹介される予定です。