【建物語】洗心亭・二本松市 天に人に生かされて

 
数寄屋風にまとめられた茶室からは城内の庭園や周辺の景色が見渡せる(永山能久撮影)

 幕末の戊辰戦争で幕府への忠節を貫き壊滅的被害を受けた二本松藩。二本松市にあった二本松城(現霞ケ城公園)は落城・炎上し、多くの藩兵が城を枕に討ち死にした。建物が焼失する中、江戸時代の建造物として唯一現存するのが「洗心亭」。江戸時代の貴重な面影が残ったのは、偶然の出来事と建物を守る人々がいたからだ。

 洗心亭の由緒と沿革が分かる唯一の史料は、旧二本松藩士で県会議長や衆議院議員を務めた安部井磐根(あべいいわね)が1907年に記した「洗心亭記」。洗心亭は城内に複数あった茶亭の一つで「墨絵の御茶屋」と呼ばれた。創建は江戸時代前期の17世紀中ごろと推定される。

 運命分けた移築

 藩主の休憩所として庭園に建てられ、二本松藩丹羽家の初代藩主丹羽光重の隠居所としても使われた。江戸後期の1837年、後方で崖崩れが発生して建物が壊れたため解体し、領内の平石村(現二本松市平石)の阿武隈川沿いに移築された。その後は藩主の休憩所に利用された。

 必要に迫られての移築だったが、これによって結果的に約30年後に起きる戊辰戦争の被害を避けることができた。戊辰戦争後、一時は荒廃したが、旧藩士らが元の姿に修繕し集会で使った。その後は、城内で製糸会社を営んでいた旧藩士が当時の丹羽家当主から譲り受けた。これを喜んだ旧藩士。1897年に元の所在地とされる場所に再移築し、修繕を加えた。この時、名称が洗心亭になった。丹羽家当主が明治時代に、城内を流れる滝を「洗心滝」と命名したことが由来だ。今も洗心亭から滝付近を眺めることができる。

 さて肝心の建物を見る。木造平屋の寄棟造りで、屋根はかやぶき。内部は茶室として利用した座敷のほか2室ある。庭が眺められるようにL型に縁がまわり、背後には便所や水場もある。主要部は良質のスギ、造作にはサクラやケヤキなど適材を選んでおり、数寄屋風の手法で一貫している。

 江戸の姿に復元

 「県内に残された大名茶屋の数少ない遺構の一つで、戊辰戦争後も残った幸運な建物だ」と語るのは、元二本松市文化課長の根本豊徳さん(70)。昭和以降、管理人が住み込んだため建物に改造や増築が施された。根本さんが文化課職員時代の2001~02年度に建物を江戸時代の姿に復元し、文化財としての価値を取り戻した。

 洗心亭に住み込みの管理人がいたことに驚いた。調べると最後の管理人は元市職員の故人の男性で、昭和後期までここで暮らし、掃除や庭園管理を行っていた。親交のあった同市の男性(74)は「二本松の人にとって霞ケ城は心のよりどころ。(元市職員男性は)洗心亭や霞ケ城をしっかり守ろうという思いを持っていた」と振り返った。

 霞ケ城公園近くに4月9日、新たな歴史観光施設「にほんまつ城報館」が開館する。ここには洗心亭のある霞ケ城や戊辰戦争の歴史を紹介する歴史展示室がある。根本さんは「長い歴史が刻まれた文化財は一度失われると二度と見ることができなくなる。そのため霞ケ城の歴史をしっかりと学び、文化財への意識を高める新施設ができることは良いことだ」と期待を込める。

 16日発生した本県沖地震で県内各地で文化財の被害が確認された。洗心亭だけでなく歴史的建造物は多くの先人の思いがあって伝えられてきた。次は今を生きる私たちが後世に残していく番だ。(国分利也)

洗心亭

 洗心亭 二本松市の二本松城跡(霞ケ城公園)内に唯一残る江戸時代の建造物。17世紀中ごろに建てられた茶亭で、江戸時代に阿武隈川沿いに移築され、明治時代に現在地に再移築された。2001~02年度に修復工事が行われ、文化財の価値を取り戻した。04年に県重要文化財に指定された。茶会などで利用できる。問い合わせは二本松市都市計画課公園緑地係(電話0243・55・5130)へ。

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 「建物語」は今回で終わります。