飯舘の農業、仲間と再興 16年帰村、情熱失わず「切磋琢磨したい」

 
「古里で農家として暮らせていることが何よりうれしい」と話す高橋さん。ハウス一面に咲き誇る花の収穫に汗を流す=2月18日、飯舘村

 「朝起きて玄関から見慣れた景色を見ると、『今日も農業を頑張るぞ』という気持ちになるんだ」―。東京電力福島第1原発事故に伴う全村避難が2017(平成29)年3月末まで続いた飯舘村。避難先で営農を再開させ、帰村後も花卉(かき)栽培に精を出す高橋日出夫(ひでお)さん(71)は、古里での営農再開への喜びを口にし、「農業の村」の復興の兆しを日々、感じている。

 「手間暇かけて育てた花が咲いた瞬間を見るのが、花農家の醍醐味(だいごみ)かな」。肌を刺すような冷たい風が吹き付ける厳冬の中、高橋さんは、自宅近くに整備したビニールハウスで、アルストロメリアやストックなど4種類の花の収穫に汗を流している。

 高橋さんは、全村避難に伴い福島市松川町の空き家に一時避難した。村の助成を受け、当時も親族から借りた農地にビニールハウスを整備し、花を育てた。トルコギキョウやグラジオラスを栽培し、2年後には出荷にもこぎ着けた。「初めは県産の花が(原発事故の影響で)売れるかどうかが心配だったが、通常の値段で出荷できて安心したのが記憶に残る」と振り返る。

 古里を離れる際、知らない土地での生活が始まることへの不安があったが「村に戻って絶対に農業を再開させる」と決心し、村を後にした。「地元の農家同士は仲間であり、ライバルのような存在。また震災前のように栽培技術を競い合うなど切磋琢磨(せっさたくま)しながら、農業に励みたい。こればかりは、古里じゃないとかなわないからね」。震災前の農業の暮らしぶりが古里での営農再開へと駆り立てた。避難先での営農は軌道に乗っていたが、16年12月に「準備宿泊」に合わせて帰村した。

 「11年の歳月はあっという間。避難先でよく頑張っていたなあ」。今でも、村外に出掛けた際、避難していた住まいに寄り道し、当時を思い出すと深くこみ上げてくるものがあるという。

 17年の避難指示解除から間もなく丸5年。村内居住者は1412人(1日現在)と、震災前の人口の3割に満たない。「帰村した人も帰らない人も、それぞれの地で生きがいを持って暮らしていくことが大事」と高橋さんは考える。

 全村避難で村外での営農という思い掛けない出来事に直面したが、農業への情熱は失わなかった。高橋さんは、花の香りに包まれたハウスで柔和な笑顔で決意を口にする。「生涯農民。体が持つ限りは農業を一生続けていきたい」(福田正義)

 11年間の歩み

 政府が2011(平成23)年4月22日に村全域を計画的避難区域に指定したことを受け、翌月に福島市に避難。12年には「いいたて全村見守り隊」に就任し、避難先から通いながら1年間、住まいがある村内の関根松塚地区のパトロールに当たった。

 13年に避難先で営農を再開。16年春に自身が所有する村内の農地に花を栽培するためのハウスの整備を開始した。17年3月末の避難指示解除に先立つ準備宿泊に合わせて帰村し、本格的に村での営農を再開させた。