未来を見つめて、向き合うあの日 震災12年、福島県民の祈り続く

 
写真上=町内での生活に期待を膨らませる斎藤さん(中央)、写真中=「思いや経験を伝えたい」と語る佐藤さん、写真下=慰霊碑に向かい手を合わせる佐藤さん

 あれから12年―。東日本大震災からの節目を迎えた11日の福島県内では、各地で大切な人を失った遺族や次の福島を担う若者たち、そして県民の祈りが続いた。

 大熊「学び舎ゆめの森」 斎藤羽菜さん 14歳

 「二度とこういう災害が起きないように」。会津若松市にある大熊町の義務教育学校「学び舎(や)ゆめの森」に通う斎藤羽菜(はな)さん(14)は12年を迎えた節目の日、学校の仲間とともに同町の町役場前で行われた追悼の集いに加わった。

 4月からは中学3年生に相当する9年生になる。ゆめの森は4月から町内に戻ることが決まっており、義務教育の最終年度は新生活の始まりでもある。集いの前には、建設中の新校舎に立ち寄った。以前より形になってきた校舎の様子を眺め、町に戻ることを実感する気持ちが湧いてきた。

 2歳で避難し、町内での生活の記憶はほとんどないが、古里を訪れる機会があるたびに町民の優しさに触れてきた。間近に迫った古里での新生活は「どきどきわくわく。楽しみでしょうがない」。

 夢は漫画家になることだ。「笑顔と感動を与える漫画を描きたい」。日常での出来事を4こま漫画にしたりしているが、町に戻ったら大熊の街並みを絵にしてみたいという。「いろいろな人と関わっていきたい。(新生活)よろしくお願いしますって感じです」

 記憶を言葉に、伝えていく 原町高・佐藤菜々香さん 17歳

 「3・11の記憶を言葉にできる最後の世代として、思いや経験を伝えていきたい」。双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館で行われた同世代とのトークセッションに参加した原町高2年の佐藤菜々香さん(17)は思いを口にした。

 震災後、自宅があった南相馬市から相馬市への避難を経験した。当時は5歳だったが、幼稚園の送迎バスに2時間も揺られたことや、出欠点呼で自分の名前が呼ばれなかったことなどつらい記憶は今も残っている。そんな時、救ってくれたのは寄り添ってくれた家族や友人だった。「心の支えがあれば、困難を乗り越えるきっかけになる。災害を自分ごととして考え、相手への思いやりが社会に連鎖すれば、被災者への心ない言葉や風評被害はなくなるのでは」

 高校では震災を語り継ぐ活動に取り組んできた。この日、同じように取り組みを続けてきた白河高2年の小山田理奏子(りなこ)さん(17)、田島高1年の星一瑠羽(いるは)さん(16)と活動を通して考えたことや伝承する大切さについて意見を交わした。将来は、教育に携わる仕事に就きたいと考えているという佐藤さん。「5歳だった私にしか伝えられない思いを次の世代に伝えたい」と誓った。

 生かされた命、大切に 南相馬・佐藤敬次さん 74歳

 「生かされた命を大切に、一日でも長く生きていく」。南相馬市小高区浦尻に住んでいた漁師佐藤敬次さん(74)は、長男で同じ漁師だった雄二さん=当時(36)=の行方が今も分からないままだ。佐藤さんは小高区浦尻で行われた追悼式で、慰霊碑に向かって静かに手を合わせた。

 請戸漁港で漁を終えた雄二さんは2011(平成23)年3月11日、浪江町の商業施設で魚を直売していた。地震が起きた後、「船を見に行く」と言って漁港へ向かい、そのまま行方が分からなくなった。

 5年後、雄二さんの免許証が入った財布が請戸川で見つかった。それが唯一の遺留品だ。妻の香代さん(70)は、息子の革の財布を自らの免許証ケースに作り直してもらい、形見として大切に持ち歩いている。

 あの震災から12年がたった。浦尻地区の遺族会会長も務める佐藤さんは、震災を思い返しながら「声をかけあい、いち早く避難するという教訓を、後世に伝えていきたい」と静かに語った。