【黎明期の群像】半井宗玄と民衆救済 飢饉や病、独自に対策

 
相馬中村城跡(中央)と、市役所(右)など眼下に広がる相馬の市街地。藩政下で飢饉や天然痘を乗り越えた医療・保健衛生での相馬の独自性は現在、新型コロナ対策で全国の注目を集める(ドローン撮影)

 天然痘は古(いにしえ)の時代から死に至る疫病として恐れられた伝染病であった。国内では、江戸後期に各地の医師たちが奔走し、天然痘の撲滅に向けた動きが活発化した。相馬中村藩における種痘は、1852(嘉永5)年7月に藩医半井宗玄(なからいそうげん)(和気貞陶(わけさだとう))によって行われる。

 藩内、餓死者なし

 宗玄は医師を志して藩医の井口寿軒(じゅけん)の門に入り元衆(げんしゅう)と名乗る。その後江戸に学び、さらに京に上り、半井主膳貞長(しゅぜんさだなが)の門に入って和気および丹波家の医術を習得する。半井家(本姓和気)は典薬頭(てんやくのかみ)(令制において医薬をつかさどった役所の長)として不動の地位を長年保っていた医家の名家である。1816(文化13)年に半井家の養子となり、医道の血脈を授けられ、和気姓半井氏を称する。

 当時、相馬中村藩は藩主・相馬益胤(ますたね)のもと、天明の大飢饉(ききん)によって悪化した財政の立て直しを行っていた。益胤は家格の高低に関係なく能力のある者を家老に据え、「文化の厳法」と言われる厳しい倹約を実行していた。その最中、1819(文政2)年、宗玄は益胤の命により帰藩しているが、その後も江戸や京都、長崎で最新医学を学んでいた。

 1833(天保4)年から始まる天保の飢饉に際して、宗玄は同年、救荒書「忘飢草(ぼうきそう)」を刊行する。飢えをしのぐために食べられる草木やその調理法などが記されており、藩主益胤による備蓄米開放などの施策もあって、藩内の餓死者は一人もいなかったと言われている。

 医者としての宗玄の記録としては、治療を施した人数は数万人とも言われ、1841(天保12)年6月に錦小路(にしきこうじ)(丹波)頼易(よりおさ)(医道をなりわいにする公家)から「陸奥国医門学頭」の免状を受け、同年9月には「法橋」に叙せられた。

 種痘、早期に普及

 1848(嘉永元)年、オランダ商館医師オットー・モーニッケが牛痘による種痘を成功させると、蘭方医のネットワークによって京都や大坂、江戸、福井へ伝播(でんぱ)する。西日本の各地で種痘が実施されるようになるものの、江戸では蘭方医の権威拡大を恐れた漢方医たちにより、49年3月に蘭方医学禁止令が出され、普及が遅れていた。そのような中にあっても、有効性がある種痘を望む声は増え、江戸・深川の医師桑田立斎(りゅうさい)はモーニッケの牛痘種を得て種痘を実施し、普及に努めていた。

 1852(嘉永5)年、病気がちであった宗玄は晩年の老体にもかかわらず、桑田立斎に入門し種痘の皆伝を受けた。藩に戻ると種痘術を医者たちに伝授し、同年7月29日に近隣諸藩に率先して初めての種痘を行った。

 領民の中には、前例のない種痘というものを気味悪がり、効果を疑って躊躇(ちゅうちょ)する者もいたため、藩は「種痘は効果のある良法だから必ず受けること」「医者への謝礼の支払いは藩が立て替えを行う」などと記した「一町(丁)触」を出し、領民への接種を促した。これが功を奏したか翌53年5月8日には「御国中植ゑ(え)候(そうろう)もの512名」との報告がなされている。

 また、近隣諸藩で天然痘の流行があっても、相馬中村藩内で被害が出なかったこともあり、接種が普及していった。

 藩内の接種が進む中、8月17日に宗玄死去の報告が月番家老のもとに届く。

 次の接種は養子の半井貫斎(かんさい)が後を継ぎ、翌54年に江戸から種を持参して行われた。当時の領内全体の状況は不明だが、小高郷(現南相馬市小高区)30カ村の状況の記録として、〈1〉種痘が植え付いた者526人〈2〉2~3度植えても付かなかった者55人〈3〉医師の診断により接種できなかった者69人〈4〉接種を希望したが亡くなった者4人―という記録が残されている。

 江戸家老池田図書(ずしょ)の書簡には、当時3歳の若君(後の藩主相馬誠胤(ともたね))が種痘を受け、うまく植え付いた様子や、藩内でまだ種痘を疑う者がいるため督励を行ったことなどが記録されている。

 相馬中村藩における種痘が周辺諸藩よりも早く開始され、短期間に広まった背景には、半井の豊富な経験に裏付けられた医術、知識と、同じく領民の命を守ることを第一とした藩主の英断があった。(相馬市史編さん委員会委員長 遠藤時夫)

 接種成功の喜び伝える

 【江戸家老、池田図書の書簡】江戸家老池田図書の種痘に関する書簡は、国家老の村田半左衛門宛てで、『熊川家文書 家老池田図書書簡』(個人蔵・相馬市歴史資料収蔵館寄託)として残る。要約すると次のような内容になり、若君の接種成功で江戸屋敷の喜びようが伝わってくる。

 「若君がご用心なされて身構えなさる様子など、全部、殿に申し上げました。接種のあとは、二十二日までに左右に三ツ(計六ツ)かさぶたとなった由、大安心。これからは後まで残るような害毒が出ないよう、容子(ようす)をよく観察して桑田立斎へも連絡して置くようにしたい。かさぶたをお掻(か)き破りがあったのは油断のことでありましたものの大悦(たいえつ)限り無し。

 郷村にはまだ疑惑を拭い切れない者が多い由、郷代官に厳しく督励されたのもごもっともです。

 半井貫斎から大槻に伝言を遣ったら、千五百人植えても大丈夫、と言って来ましたが、その後、桑田方に書状もなく残念です」(遠藤時夫要約)

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 桑田立斎 1811~68年。越後・新発田出身の蘭学者、小児科医。モーニッケの牛痘接種の効果を認めると、「十万児牛痘接種」の目標を掲げ、その普及・啓発に生涯をかけた。接種で牛になるなどのデマを打ち消すために著した解説書『牛痘発蒙』には保赤牛痘菩薩(ぼさつ)が天然痘の悪魔を踏みつけて幼児を助ける挿絵があり、庶民が拒みがちな西洋医学の普及に苦心した跡がうかがえる。幕末期には蝦夷地(北海道)に和人が移住したことでアイヌの間に痘瘡(とうそう)が流行したため、幕府の命を受けた立斎は函館から国後(くなしり)島まで広範囲に探索しながら数千人ものアイヌに種痘を行った。