伝える、災害は自分ごと 風化防ぐ「力続く限り」

 
宇都宮市で開かれた講演会に参加した高村さん(右)。「災害を自分のことと考えてほしい」との思いで活動を続けている=4日

 南相馬・「語り継ぐ会」高村美春さん

 「今ここで地震が起きたら、皆さんはどう行動しますか」。4日、宇都宮市で開かれた講演会。登壇した南相馬市原町区の高村美春さん(54)は、参加した親子連れなどにはっきりした口調で語りかけた。

 高村さんが東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の語り部活動を始めて12年目を迎えた。「原発震災を語り継ぐ会」の主宰として年間約50回の講演を行う。「災害を『自分のこと』として考えてほしい」と強く思っている。

 高村さんの自宅は、第1原発から北に25キロの南相馬市原町区にある。震災直後の2011年3月14日、勤務先から家に帰ると、21歳の長男が布団をかぶって大声で泣いていた。インターネットでチェルノブイリ原発事故などのことを調べ、福島で同じことが起きていると、恐怖を募らせていた。「ここにいたら俺、死ぬんじゃないか」。涙を流してそう話した。

 高村さんはその後、各地を転々としながら避難生活を送った。東京電力や国への怒りや疑問がわき起こると同時に、「原発や放射線についてもっと知っておくべきだった」と痛感した。

 その年の11月、被災者の一人として県外の約50人に向けて被災体験を語ったことがあった。会場で不意に誰かから「語り部さん」と呼ばれた。その時、自分がするべきことが分かった気がした。「伝えようとしないと何も伝わらない。同じことを二度と繰り返さないため、自分にもできることがあるのではないか」。つらい記憶を語り続ける道を選んだ。

 震災と原発事故から間もなく12年。宇都宮市の講演会場で、高村さんは避難生活の中で感じた葛藤や後悔を赤裸々に語った。チェルノブイリ原発事故とは状況が異なることなども知らず、恐怖におののくしかなかった日々を、時折言葉を詰まらせながら伝えていった。

 最近、地元でも震災や放射線の話を聞くことが少なくなったと感じている。時間の経過とともに忘れられていくのは仕方ない面があるが、風化を防ぐのも語り部の役目だと自覚している。

 今後起こり得る大災害に直面した時、つらい避難を余儀なくされた自分たちの経験を生かしてほしい―。高村さんは壇上に立ち続ける。「力の続く限り体験を語っていく」(秋山敬祐)

 【12年の歩み】

 原発事故や放射線に関する知識を得ようと、2012年2月にウクライナのチェルノブイリ原発を視察。同年6月にはブラジルのリオデジャネイロで開かれた環境会議の場で自身の体験を語った。16年にはいわき市で開かれた第1回福島第1廃炉国際フォーラムに出席し、被災者の思いを伝えた。現在は語り部として県内外で活動を展開している。

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 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から11日で12年となる。震災と原発事故で傷ついた古里を思いながら、復興へ歩み続ける人たちの現在地を取材した。